顔面を削ぐ   久永実木彦


「見てくださいよ、先輩。猛暑のせいですかね? 顔の汗を拭いたら顔面が削げてしまった」
「見てくださいって言われても、おれもちょうど顔の汗を拭いたところでね。目玉も何もなくなっちまった」

(了)





   一日後。

 ――ピンポーン。
 チャイムが鳴った。インターフォンのモニターには見知らぬ男の顔が映っている。やれやれ。ぼくは書きかけの原稿を保存してノートPCを閉じ、代わりに玄関のドアを開いた。
「どちらさまですか?」
「あなた作家さんですよね? 昨日、写真家のスミダカズキさんのサイトにアップされた『顔面を削ぐ』を書かれた」
 見知らぬ顔の男だった。ぼくの住所はもちろん公開されていない。どう返答したものか――困惑するぼくを無視して、男は言葉を続けた。
「あちらの作品についてどうしてもお聞きしたいことがあるんです」
「そう言われても僕はあなたのことを知らないし、いきなり家に来られても困るのですが」
「ああ、すみません。わたしは〈のっぺらぼう警察〉の者です」
 〈のっぺらぼう警察〉――その忌まわしい言葉の響きに、ぼくは恐れおののいた。
「そんなに怖がらないでください。ここで構いませんし、少しの時間でいいんです」
「……はい」
「見解を聞かせていただきたいんです。この『顔面を削ぐ』の登場人物は汗と一緒に顔面まで拭き取ってしまったから、お互いの様子を見ることができなかった――つまり、そういうことですよね?」
「はい、そうです」
「たった二行、タイトルを入れても一〇〇字未満。じつに洒落たホラーですね――もちろん、スミダカズキさんの写真がなければ成立しませんが」
「そうですね。写真がすべてといってもいいかもしれません」
「ええ。ただ、それをおいてもどうしても気になることがあるんです。目玉がなくなってしまったから見てくださいと言われても困るというオチ……あ、オチでいいんですよね? そこはわかるんです。でも、だったらどうして二人は会話しているんでしょう? 顔面を削いでしまったのなら口もなくなっているのでは?」
「もちろん、ぼくとしてもその点についてまったく気にならなかったわけではないのですが――」ぼくは顎をさすって言った。「口腔というのは喉に通じる穴ですから、表面を削いでも穴は残りますし、声帯が残っていれば声を出せるのではないかと、そう思ったんです」
「しかし、写真を見るかぎり削いでしまったのは表面というより顔という概念そのもののような気がしませんか? 真っ暗でまるで虚無そのものだ」
 〈のっぺらぼう警察〉はポケットからスマートフォンを取り出して、スミダカズキさんのサイトを開いてみせた。
「おっしゃるとおりですね。ぼくにも虚無そのもののように見えます。いい加減なものを書いてしまってすみませんでした」
「いえいえ。作家さんにもいろいろいらっしゃいますし、それぞれ自由に書かれてよいと思います。ただ、長年〈のっぺらぼう警察〉をやっておりますとね、こうした細かい部分が気になってしまって。あなたが顔面の虚無を理解したうえで何らかの意図をもって書かれていたのなら、それを知りたかったというだけなんです。責めるつもりなんてありませんよ。お時間を取らせてしまって申し訳ありませんでした」
 丁寧にお辞儀をして〈のっぺらぼう警察〉は去っていった。ぼくはドアを閉めて洗面所に行き、ため息をついて顔を洗った。書きかけの原稿のことが頭に浮かんだが、ノートPCを開く気にはなれなかった。そんなことはもうどうでもよかった。
 洗面台の棚で剃刀の刃が鈍く光っていた。





   一か月前。

「――という感じで、二行だけの小説なんだよ。タイトルを合わせても一〇〇文字もない」
「たしかに風変わりといえば風変わりかもしれないけどね」
 その日、行きつけの喫茶店でぼくは友人に『顔面を削ぐ』の構想について話していた。とても短い怪談で、ぼくとしてはいいアイデアのように思えたのだけれど、友人は腕を組んで眉間にしわを寄せた。
「じゃあどうして難しい顔をするのさ。さすがに短すぎるってことかい?」
「いや、スミダカズキさんは優しいから二行でもきっと載せてくれるだろう。おれが気になるのは内容のほうだよ」
「つまり?」
「登場人物の二人は汗を拭いたと思ったら、うっかり顔面を削いでしまったんだよな? なのに会話は続いている。それって変じゃないか。だって彼らは口だって失ってるはずだろう?」
「まあね。でも、だからといって「あくまで削がれたのは顔の表面だけで、声帯は傷ひとつありませんでした」なんて説明を一行足してしまうのは無粋じゃないか? それだと一〇〇文字を超えてしまうし、そもそもこれはそういったリアリティを追求するような話じゃないんだ」
「言いたいことはわかるさ。おれもどちらかといえばきみの意見に賛成だ。でもな、この世のなかにはそういう細かい部分を気にする連中もいるんだ。いわゆる――〈のっぺらぼう警察〉とでもいうべき連中がね」
 〈のっぺらぼう警察〉――その滑稽な言葉の響きに、ぼくは笑った。
「おいおい。おれは真面目に言ってるんだぜ」
「細かい部分も大事だということはわかったよ。でもまさか〈のっぺらぼう警察〉とはね」ぼくはもう一度笑った。
「あんまり馬鹿にしていると、本当に〈のっぺらぼう警察〉がきみの家に来るかもしれないぜ?」
「あり得ないよ。もし『顔面を削ぐ』のせいで〈のっぺらぼう警察〉が家に来たら、それこそ剃刀で自分の顔面を削いだっていい」
「そういう冗談はやめておけよ。縁起でもない」
「いいや、ぼくは冗談を言わないんだ。君と違ってね。〈のっぺらぼう警察〉が来たら、その日のうちに顔面を削ぐことを約束するよ」
 もう一度課題の写真を見ると、被写体の顔は表面を削がれているというよりも顔という概念を失っているように思えた。まるで虚無そのものだ。友人と別れたぼくは『顔面を削ぐ』を一分かそこらで書き上げ、スミダカズキさんにメールで送った。





久永実木彦
小説家。『七十四秒の旋律と孤独』で第8回創元SF短編賞を受賞。岡田奈々ヲタク。

書いたら猛暑が終わっていました。いまは猛暑警察に怯えています。